プロフィール
生い立ち
私は昭和30年代の後半に、福岡県で9人兄弟の末っ子として産まれました。
父が45歳、母が36歳の時の子です。
9人兄弟とは言え、8人目までを産んだ母親が産褥熱(さんじょくねつ)で亡くなり、
8人目の赤子は里子(さとご)に出されました。
それから私の母が後妻(ごさい)として嫁いだので、母の子どもは私だけです。
母はいきなり7人もの子どもの母になりました。
私は子どもとの関係で何かと苦労する毋の姿を見て育ちました。
なので自分が大人になったら母を守るんだ!と思っていました。
大好きな母との別れ
でも、悲しいことに、母との別れが大人になる前にやって来てしまいました。
それは中学校に入学したばかりの4月のことでした。
母は一年ぐらいの闘病(とうびょう)後、病に勝てずに私を残して逝(い)ってしまいました。
私は毎晩涙で枕をぬらしました。
母を亡くして心にぽっかりと穴が空(あ)いてしまいました。
猫に癒やされる
そんな寂しい気持ちの私を癒(い)やしてくれたのは、
高校生になって飼い始めた1匹の雌猫(めすねこ)「ミャア」でした。
ミャアは鳴き声も可愛く仕草(しぐさ)も愛らしい猫でした。
私に懐(なつ)いてくれ、抱っこも嫌がりません。
学校にいる時も帰ったらミャアに会えるのが楽しみでした。
発情期にミャアは妊娠しました。
当時は完全室内飼いではなく、また、避妊手術なんて考えも及びませんでした。
ミャアはお産しましたが、月齢の早い妊娠のせいか、産まれた子猫は1匹も育ちませんでした。
ミャアとの悲しい別れ
それは、2回目のお産の時のことでした。
前回のお産の時に、布団の上でお産をして布団を汚してしまったので、
義姉が外でお産をさせようと家から出しました。
ミャアは「入れてくれ」とばかりにずっと鳴いていましたが、「お産が終わるまで」と心を鬼にして家に入れませんでした。
それきりミャアの姿を見ていません。
ミャアは何処へ行ったのか探しても全く見つかりませんでした。
悲しくて悲しくて今でも後悔しています。
喘息を発症してしまう
ミャアとの悲しい別れの後、私は喘息を発症してしまいました。
父も喘息持ちでしたので、アレルギー体質を受け継いでいる下地があったのでしょう。
しばらく病院通いが続きました。
病院で点滴を受けて帰宅する。点滴を受けても少し息苦しいけど動いているうちに治ってくる‥そんな状態でした。
心身共にこの頃が一番辛かったですね。
でも、高校を卒業後に就職してからは喘息の状態も少しましになりましたね。
結婚を機に喘息が軽くなる
就職して7年後に結婚してからは、体質が変わったのか喘息は更に軽くなりました。
子どもが産まれてしみじみと幸せを感じました。
自分の子どもの頃の様に緊張する家庭ではなく、
幸せな家庭を築こうと思いました。
子どもがアトピーを発症する
ところが、子どもに湿疹が出で病院に連れて行ったら、
アトピー性皮膚炎だと診断されてしまいました。
「アトピー性皮膚炎」なんとなく聞いたことはありました。
ちょっと厄介な病気だという認識でした。
でも自分には関係ないと思っていました。
そんな根拠のない自信がありましたので診断されてかなりショックを受けました。
食品や環境を意識するようになる
ちょうどその頃、母乳育児の桶谷式と出会いました。
母親である私が食べた物で母乳の出、及び質が左右されることを身をもって体験しました。
またその後、生協の役員になり、役員会の時に食品添加物や環境の事、みみずの働き、
等々学びました。
小さい子どもを連れて役員会に出席するのは、大変でしたが、いい経験で勉強になりました。
生協で学んだことをベースに、徐々に生活を改善して、子どものアトピーも私の喘息もずいぶん改善されました。
こうした経験を踏まえて、
猫と楽しく暮らすため、
また、アトピーで苦しむ子どもを減らすためにも、色々調べて発信しています。